100歳のスクルッタおじさん
来週の17日(月)は「敬老の日」ですね。こんにちは、遅めの夏休みを一週間いただいた森番です(エネルギー・チャージ完了!)内閣府ホームページによると、敬老の日とは「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であるとのこと。近年は「人生100年時代」などとも言われ、長寿であることが珍しくない社会となってきました。しかしその反面、年金や医療費、介護の問題などが、現実のものとなってきています。皆が長生きできる時代となった今だからこそ、よりお年寄りが健康で元気に、幸せで過ごせる社会でありたいものですね。
ところで皆さんは『ムーミン谷の十一月』(講談社/鈴木徹郎訳)「なんでも、わすれるのだ」に、まさに100歳のスクルッタおじさんという人物が登場することを、知っていましたか?
このスクルッタおじさんについては、お年寄りならではの悩みや心情がよく描かれた、読む側にしてみれば少し切ないお話でもあります。そしてそんなスクルッタおじさんが登場するシーンは、まさにこんな文章から始まります。
「その人は、きみのわるいくらい年よりでした。そして、とてもわすれんぼうでした。」
スクルッタおじさんは、目が覚めると自分の名前すら忘れてしまいます。そして日々の面倒なことも、すっかり忘れてしまうのです。しかしひどく物忘れの進んだスクルッタおじさんにも、分かる事や覚えていることがありました。日曜日ごとにやってくる、親戚のことがまさにそうです。
「日曜日になるたびに、おおぜいの人たちがおしかけてきます。(中略)むやみやたらと大きな声をはりあげて、なんだかんだ、たずねようとするのです。」
「(前略)みんなは、おやすみなさいといって、とっとと、うちへ帰って、うちでは、うたったりおどったり、あくる朝まであそびぬくのです。」
親戚の人たちも、スクルッタおじさんのために良かれと思ってやっていることかもしれませんが、おじさん側からしてみたら、全く別な風に捉えてしまっている。。。お年寄りと接する際によく起こりがちな、すれ違いのようにも思います。スクルッタおじさんは、自分にささやきます。
「(前略)この世の中の身内のことなんて、すっかりわすれてしまうのだ。」
そんな中、スクルッタおじさんは自分がいったい何をしたいと思っているのか、じっと考え込んでいました。そしてある日の明け方、その事をはっと理解したのでした。
「そうだ。遠いむかしに、いったことのあった、あの谷へいってみたいんだ。」
「わしにいちばんだいじなのは、あの谷間を流れている小川なんだ。」
スクルッタおじさんは、そこでは自分もみんなと夜中まで、歌ったり、踊ったり、さわいだりして、遊びあかすことができると想像するのでした。早速、旅支度に取りかかるスクルッタおじさん。みんなにお別れの手紙を書き残すと、100歳という自分の年齢も家の中へと閉じ込めて、旅に出かけるのでした。
『さあ、これから、この目で見るものは、いままでとはまるっきりちがった、新しいものばかりなんだ。』
「胸がわくわくしてきました。力がもりもりわいてきました。(前略)おじさんは、あの、しあわせな谷をめざして、(中略)わき目もふらずに歩きだしました。」
こうして元気にムーミン谷へと旅立った、スクルッタおじさん。
するとそこには、人恋しくてムーミン家に集まってきたフィリフヨンカ、ホムサ、ヘムレン、スナフキンたちがいるのでした。ところが肝心のムーミン一家は不在。そしてそこから、ムーミンたちが帰ってくるのを心待ちにする皆との、ムーミン屋敷での共同生活が始まるのです。。。
今週は「敬老の日」ということで、スクルッタおじさんを紹介しましたが、いかがでしたでしょうか? 物語中「あなたは、ほんとは、おいくつなの。」とおそるおそる尋ねるフィリフヨンカに、スクルッタおじさんはウキウキした声で「わしは、まだまだ、死ぬなんて思っちゃいないぞ。」と答えます。ちょっぴり切ないスクルッタおじさんのお話ではありますが、100歳という高齢であっても、生きることに一生懸命なスクルッタおじさんの姿には胸を打たれるものがあります。例え少しカッコ悪かろうとも、人間、誰もが必死に生きようとする姿には、それぞれ美しさがあるように思います。それでは今週はこの辺で、また来週お会いしましょう~!