「トフスラン(Tofslan)」と「ビフスラン(Vifslan)」の名前に隠された秘密のメッセージ トーベ・ヤンソンの人生と仕事における同性愛 Part2
シリーズの第2回では、ムーミン谷における性差の多様な役割と、それらがトーベ・ヤンソンの人生にどのように関係しているかを考えていきましょう。皆さんはムーミンの英語訳において、トフスランとビフスランの名前が「シンガミー(Thingumy)」と「ボブ(Bob)」(訳注:英語で人やモノの名前が思い出せないときに代わりに使う単語Thingamabobが由来)と訳されたことで、トーベの女性との最初の恋への重要な示唆が失われてしまっていることをご存知ですか?
このシリーズの第1回で述べた、トーベのヴィヴィカ・バンドレルへの愛は、2人組のキャラクター、トフスランとビフスランとしてムーミンの小説にも描かれました。彼らは『たのしいムーミン一家』でムーミン谷へやってきます。
八月の初めの、ある朝早くのことです。
トフスランとビフスランが、山を越えて、いつかスニフが魔物のぼうしを見つけたあたりまでやってきました。ふたりは山のてっぺんから、ムーミン谷を見下ろしました。
トフスランは赤いぼうしをかぶり、ビフスランは大きな旅行かばんを持っています。
とても遠くから歩いてきたので、かなりくたびれていました。
ムーミンやしきのえんとつからは、白樺とやりんごの木のこずえをぬって、けむりが立ちのぼっていました。
「け、あむりだ」
と、ビフスランがいいました。
「りょにか、なうりしてるね」
こういってトフスランはうなずきました。
そこでふたりは、ふしぎなしゃべり方をしながら、ムーミン谷へ下りていったのです。なにを話しているのかは、だれにもわかりませんでした。でも、ふたりのあいだでは、ちゃんと通じあっていたのです。
(『たのしいムーミン一家』1948年より。邦訳は山室静訳、講談社刊)
トフスランとビフスランは彼らの間だけで通じる独特の言葉を話すのですが、それはトーベとヴィヴィカが二人の間の手紙で用いたのと同じものでした。彼らは大きな秘密、宇宙に赤い光を放つ、うっとりするほど美しいルビーの王様を運んでいるのです。トーベとヴィヴィカの禁じられた愛の隠喩としてこの物語を読むことは、決して大げさなことではありません。
英訳では失われてしまった、トフスランとビフスランの名前に隠された秘密
英訳の「シングミー」と「ボブ」の原語は、スウェーデン語で「トフスラン(Tofslan)」と「ビフスラン(Vifslan)」ですが、この名前には、トーベとヴィヴィカの名前が隠されています。実はこれは、トーベがヴィヴィカとの手紙で使った二人のニックネームでした。セクシュアリティの観点から見て、英語の翻訳者が「シンガミー」と「ボブ」という名前で訳したのは、非常に興味深いことです。ボブは普通男性の名前ですが、トフスランとビフスランの語形はスウェーデン語の女性の愛称に典型的なものです。つまり、この現在の英訳ではトーベとヴィヴィカへの示唆が欠落してしまっているのです。
「ねえビフスラン、アトリエに入ると、なんだか家に帰ってきたっていうような不思議な感じがするのよ。あなたがいる家に。もちろん手紙が届いているかもしれないってこともあるし、ベッドボードにはあなたの首飾りを掛けているから。眠る前と起きるときには、いつもそれを見てるのよ。そして悲しい気持ちのときは、ぎゅっと握るの」
(トーベからヴィヴィカへの手紙 1947年1月3日)
「今夜は私をなぐさめてほしい――私がみじめな存在でも、私のことを好きでいてくれる? もし自分に何の価値もなかったら、朝も夜もあなたのために詩を書いて送ることはできないわ。―フレスコ画に挑戦中のトフスランより」
(トーベからヴィヴィカへの手紙 1947年1月31日)
現実世界では、トーベとヴィヴィカは激しく燃え上がった数週間が終わったのちは恋愛関係を続けることはできませんでした。ヴィヴィカは夫と別れるつもりがなく、後には他にたくさんの女性の恋人がいたことも判明しました。トーベはひどく傷つきましたが、やがて二人は生涯にわたって深い信頼で結ばれた友人となります。そしてムーミンの舞台では共に仕事をし、大きな成果を残したのでした。
トフスランとビフスランは、おそらくムーミンの物語の中で、トーベの同性愛について最も直接的に描かれているキャラクターですが、その他の小説やコミックスの中にもジェンダーや人間関係に関する興味深い視点が見られます。
ムーミンの物語において、ムーミントロールの親友のスナフキンは、自由を愛し、束縛を嫌うさすらいの旅人として描かれていますが、その一方でムーミントロールは、そうしたスナフキンとの付き合いにうまくなじめていないように見えます。
ムーミンとスナフキンのこの関係性は、トーベがヴィヴィカと出会ったときに長年トーベの恋人だった男性、アートス・ヴィルタネンとトーベとの関係を反映しているとしばしば言われていますが、トーベとヴィヴィカの関係についても同じことが言えるでしょう。トーベがヴィヴィカと関わりたいと欲していたとき、ヴィヴィカの方は自由でいたいと思っていました。しかし一方では、トーベ自身の中にも確かに小さなスナフキンがいて、自分の作品の創作のために自由でいること、自分自身で人生を選択したいと願い、当時の若い女性としては型破りな生き方をすることを望んでいたのです。
ムーミン谷の型にはまらないジェンダー・ロール
読者の中には、ムーミン谷のジェンダー・ロールは、従来の型にはまったものだと解釈する人もいるかもしれません。たしかに母親らしいムーミンママ、冒険が好きで男らしいムーミンパパ、そして自分のことが大好きなスノークのおじょうさんは、どちらかといえば伝統的なジェンダー・ロールを体現しています。
しかし、ムーミン谷のジェンダー・ロールは、男性性と女性性を併せ持ち、いつも長いドレスを着ているヘムレンやホムサのように、はっきりと定義されていないこともよくあります。
同性愛とジェンダーの視点からのもう1つの興味深いキャラクターは、ムーミン一家のメイドのミーサが飼っている小さな犬のインクです。
コミックスの「ムーミンママのメイド」(邦題は「ふしぎなごっこ遊び」冨原眞弓/訳 筑摩書房(1956))で、インクは「みっともない秘密」を持っていると書かれています。 彼は犬であるにもかかわらず実は猫が好きで、猫と友達になりたいと願っているのです。 ムーミンママはインクの秘密を知ると、インクが求めていることは、自分の中にある本質に忠実でいるということなのだと静かに受け入れます。そしてムーミンママは、インクの友達にするために、犬を猫のような縞模様に塗ることでこの問題を解決したのでした。
次回は、いよいよ45年間を共に暮らし、トーベの生涯のパートナーであるトゥーリッキ・ピエティラとの美しいラブストーリーについて触れることにしましょう。
翻訳/内山さつき
*手紙は、ボエル・ウェスティンとヘレン・スヴェンソンによる『トーベ・ヤンソンからの手紙』(サラ・デース/訳 英語版)より引用しています。